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編入したときから、4年間は太陽の下で勉強しようと決めていたから、躊躇せずに大学院へ進んだ。当時は大学の近くに住んでいたが、毎日の家庭教師の仕事が行動を大きく制限したので、大変悔しい思いをした。夜11時頃から夜明けまで勉強し、配達された牛乳で軽い朝食を済ませてから眠った。午前中の講義があるときは仮眠で出席したが、いつもは昼まで眠り、午後の授業に出て、夕方からは家庭教師である。従って、旅行や外での活動が何もできなかった。この状況が大病の素地となったのだろう。事実、体の調子が悪いのがしばらく続いたたことがあった。ただ、困窮したとき父から少しは助けを仰いだという経済的理由で、そして家庭教師先が所有するアパートの4階にある1部屋(6畳、4.5畳、台所)を無償で貸与していただいていたので、自分の内面的な要求を抑えたのである。
修士課程に入学したとき掲示を見ていなかったため、日本育英会の奨学資金を受けられなかったが、博士課程では貸与されることになった。そして先輩が留学されるので、大阪工業大学において非常勤で担当されていた英語を9月から引き受けることになった。初めて大学の教壇に立つのであるから、心の準備まで必要だと思った。他にも家庭教師があったので、夏休み前に実家に戻った。
後期の授業料を払うときになって、母は「それぐらいしか要らないのなら大学へやってやれたのに」と呟いた。この時点でそんな発言は何の気休めにもならなかった。姉達や弟達のことを思えば、かえって聞きたくない言葉でもあった。ただ家では勉強以外に何もしないので、夏休みと冬休みは自分でも驚くほど研究が進んだが、翌年から大阪工業大学へ週2日、龍谷大学へ週2日、授業に週2日、それに家庭教師とめまぐるしく動き回った。奨学資金は2万円であったが、一ヶ月に手にするのは13万円を超えていた。特に、大学院の授業を受けてから、大阪工業大学の一、二部の授業を担当し、すぐ近くの友人の家で泊めていただき、翌日龍谷大学の綬業を担当したことがあった。
経済的な余裕ができたので、積極的に図書を購入した。Oxford English Dictionary は12万円であったと記憶しているので、奨学資金の6ヶ月分に相当した。この辞書は現在でもほとんど同じ比率である。しかし当時学費は3ヶ月分であったが、現在では10ヶ月分は必要である。つまり、現在と比べて母校の学費が大変安かったので、学業を続けることができたのである。反面図書は割高であったと言えるであろう。
大病と結婚
3年次でも同じ生活を続けたが、10月の中頃に倒れて入院してしまった。非常に頑健な体を過信した結果である。検査の結果、両肺の下から3分の1、上部の一部分が機能を停止しており、機能している両肺の上半分が肺炎に罹っていたことが判明したのである。そこで医師が「今晩もたないかも知れない」と両親に告げた。ところが、感情の起伏が激しい次姉が私の個室の病室であまりにも取り乱したので、私は医師から死の宣告があったことが理解できた。周りに近親者がいないとき、「ここまで自分の意思で好きなようにやってきたのだから、死んでも悔いは残らない」と覚悟を決め、かなり平静に戻れたけれども、一条の涙が頬を伝ったのを今でも覚えている。
医師の間で機能していない部分の切除手術をするか否かで論が分かれ、月日だけが経過した。天理教の病院である「よろず相談所」は当時東洋一の私立病院と言われていたが、その名に恥じず、設備だけでなく医師、看護婦、事務員等の人材まで申し分がなかった。つまり「よろず相談所」は心と体を治療する場所なのである。医師団は私の生命を第一に考え、最良の方法を選択したかったので、なかなか決定できなかったのである。
しかし4ヶ月余りが過ぎても、循環器内科の部長が回診で手術について何も話されなかった。その直後、私は急に嘔吐を繰り返した。なんと急性肝炎にかかっていたのである。絶対安静が続いた。1週間に1度だけ洗濯物を取り替えに来る母がこれを知り、次に来たとき、「不動尊は2週間で治してみせると言われた」と言った。看護婦から最低2ヶ月はかかると言われていたので、母の言葉を全く信用できなかった。と言うより、それまで私はそのような存在を全く信じていなかった。その次の週に来た母は「もう一度不動尊へ行くと、今月中に退院させると言われた」と言うのである。ここまで来れば、狂信だと思った。ところが、2週間で病室内は歩行可になり、3週間で病棟内も歩行可になった。しかも、である。多分3月24日頃に「27日に弟に自動車で博士課程の単位取得証書を受け取りに大学へ連れていってもらっても構いませんか」と主治医に尋ねると、「月末ならいつでも退院してもらえますので、結構です」と答えて下さった。これ以来、私は超能力を信ずるようになった。
倒れたとき婚約していたので、私は仲人を通じて婚約破棄を申し入れた。しかし、この申し入れは拒否された。養護学校に勤務したことのある婚約者は「目が見え、手が動く限り、婚約は破棄しない」という返事を伝えてきた。しかも姫路市の沖に浮かぶ家島群島にある姫路東高等学校家島分校から、船が出るときは毎週天理市の病院まで見舞いに来てくれたのである。これが5ヶ月も続いたのである。どれだけ力づけられたか分からない。退院して10月に結婚したが、私の命の半分は妻のものと思っている。
退院するとき、主治医は仕事をしてもよいと助言して下さったので、有り難いことに、二人の先輩は急遽関西大学と大谷女子大の非常勤講師を用意して下さった。倒れたとき「再び教壇に立つことができれば、何の文句があろうか」という淡い希望を抱いていたので、全く夢のようであった。生命を第一に考え、献身的に治療・看護して下さった病院の方々には御礼の申し上げようもない。この時から、自分の命は自分のものであって、自分のものではない、つまりお世話になった皆さんから預けられている余生であるという思いが思考の根底に据えらている。