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心の軌跡
青春とは一体何であろう、私に青春があったのか?青春と言えるほどのものがあったとは言えまい。他人の目は別にして、本人はそう思っている。父の経済状態だけでなく社会の厳しさを痛感して高校を卒業し、ハカマ鋼材へ入社した私は新しい世界に順応するだけで精一杯であった。第一、電話が怖くて仕方がなかった。電話に慣れていない私は商談の中身が分からなかったのである。
入社直後、貿易部を作る計画が持ち上がり、専務の友人である大阪商業大学の磯部教授に英語を教えていただくことになった。高校までカタカナに近い発音をしていた私は本当に惨めな思いをした。何故なら、私は全くの音痴なので、先生の発音が区別できないのである。それはとりも直さず、きちんとした発音ができないことを意味した。アパートへ帰っても顎が疲れてしまって十分に噛めないために夕食がのどを通らない。しかし、「r」と「l」の発音の特訓に取りかかった6月中旬に西区立売堀の営業所へ配属になり、中断してしまった。「r」と「l」の発音の問題はこの時より大きな問題として私の前に横たわっているが、今ではこの特訓のお陰で発音の基礎ができたことに大変感謝している。
立売堀営業所では大きな苦痛と悲しみを味わった。朝鮮動乱の後であったので、特殊鋼業界は空前の好景気を謳歌し、新入社員である私も連日接待に連れ出され、タクシーでの帰宅は12時を過ぎていた。入社時にアルコールはほとんど飲めなかったので、今度は酒を飲む特訓である。これほど苦しいことはなかった。阪急電車の園田駅の近くに住んでいたので、難波から地下鉄で帰ることもあったが、夜も更け、人気の少ない難波駅で電車を待っている間に、地下鉄の軌道の枕木を見ていると、無性に悲しくなることが多かった。入社時の給料は6千円であったが、難波のふぐ料理店「旗本」での2時間の食事代は2万円を越えていた。つまり、高校卒業直後の一社員が一晩で使う接待費が数万円(私の給料の10ヶ月分)にも達しているのである。勿論、結果的にはこの額の半分は相手の会社が払うことになるが、私に関する一ヶ月の接待費だけでも天文学的数字になるのである。これは狂気としか言いようがなかった。
そこで、大阪市立大学の二部へ入学しようと思い、その準備をし始めた3月上旬に先輩が関西大学の2期入学試験を受験することを勧めて下さった。これに合格したが、当時退社時間は6時になっていたので、5時20分から始まる1講時の授業を受けるには4時に退社しなければならなかった。市電に乗り、大阪駅経由で天神橋6丁目まで出るのに1時間を要したのである。バスであれば、大阪駅前で乗り換えであったので、不便であった。しかし、いずれに乗っても、大阪駅前の混雑がひどく、雨が降れば、2時間近くかかったので、登学は断念した。
前期の試験のため数日早退を繰り返したので、仕事が山積した。それを処理するため講義に出ることができなくなり、またもや夜の世界が待ち受けていた。しかも今度は麻雀の仲間にも組み入れられてしまった。そして1年を棒に振るのである。
この頃から景気が急に冷え込み、私の仕事も暇になったので、講義にかなり出ることができるようになって単位もきちんと取得した。倒産が続出したので、その整理に駆り出された結果、金銭の冷たさを肌身に感じ、会社を辞め、一部へ編入する決心をした。しかし、1年で単位を全然取得していないので、編入試験は受けられなかった。
翌年ようやく編入できたので、実家から3時間20分かけて通学することにした。学費等を親に申し出ることができないと最初から覚悟していたが、食費ぐらいは頼ろうとしたのである。ここらあたりに雑草の逞しさ、ずるさが垣間見られる。しかし友達が何故編入したのかと尋ねたとき、その答えは“I wanted to study in the sunshine.”であった。そして金曜日の2講時目は演習劇文学であった。ところが担当の栗駒先生は「9時から始めよう」と言われたが、2番のバスでは9時15分にしか着かないので、9時20分からにしていただいた。ここでの授業は英語をきちんと調べておけば、全て順調に進んだ。何故なら、高校時代の演劇部の経験がものを言ったからである。そしてこの授業が私のライフワークへと繋がっていくのである。その後も栗駒先生は二つの輪読回を開催し、卒論を指導して下さり、私を導いて下さった。本当に良い師に巡り会えたのである。
また、英語学担当の廣岡先生はテーマを与えて、ハーディーの『テス』、ゴールズワージーの『リンゴの木』、エリオットの『サイラス・マーナー』、ロレンスの『息子と恋人』及び『死んだ男』、シェイクスピアの『テンペスト』、ヘミングウエイの『武器よさらば』に関するレポート提出を求められた。それぞれのテーマを原稿用紙20〜30枚に書いて出さなければならなかったので、これらの作品を何度も読んだ。その結果、これらの作品は地に足をつけて歩いていなかった私に「どんなことがあっても生きていかなければならない」というこの世を生きる力を与えてくれた。この機会を与えていただいた廣岡先生に対する感謝の念は死ぬまで消えることはないであろう。
勤めていたときに知り合った得意先の方が家庭教師のアルバイトを何度も紹介して下さった。勤めていた会社も忙しいときや棚卸しでは使って下さった。しかも家庭教師では普通学生が貰う2,3倍の報酬をいただいたりした。これは博士課程で大病を患うまで続いたが、本当に有り難いことであった。