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 心の軌跡  



中学時代       

 既に4つの村が合併して和束町になっていたので、町立和束中学校に入学すると、3月に卒業した次姉の担任であった先生が私の担任であった。ある事件を起こしたとき、その先生は涙を流しながら私を殴って、姉と私を比較し、その非を諭された。この時点では人の言うことをある程度聞き入れることができるところまできていたので、大きな衝撃を受けた。しかしその後、体育の時間にある先生から少し規律を乱しただけで、きつい一撃を受けたのは悪い思い出になっている。そして小さい頃から父にいつも不意に殴られていたので、結婚したとき、子供には問答無用の一撃を食らわせないと心に誓った。教壇に立ったときも同じであって、問答無用の実力行使はしないことにしている。
 長兄が幼少で死亡しているので、父は家業を次男の私に継がせるため昼間の定時制の農業科へ進学させようとしていた。担任の先生が熱心に父を説得して下さったお陰で、私は普通科へ進学することができた。父は3人の息子のうち誰かが家業を継げば良いと考えたのである。

高校時代

 最後の学校生活になるので、入学時に生活の大まかな3等分を思い立った。つまり勉強、クラブ活動、自分のしたいことである。1年の2学期から1年間、生徒会副会長を、続けて1年間会長をすることは考えていなかった。その結果、したいことが半分もできなかったのである。それでも1年に1,2回公演する演劇部と5回新聞を発行する新聞局の活動は3年間続けた。朝5時50分に起床し、6時10分に家を出て7時20分に学校に着いた。帰宅は午後7時半であった。早朝の50分、午後の3時間を生徒会とクラブの活動に充てたのである。そして、文化祭の前には夜まで準備に没頭した。特に舞台装置の作成で夜遅くまで作業を続け、顧問の先生のお宅に泊めていただいたりした。しかし、これだけでは心の飢えが満たされなかった。そこで、精力的に読書を心がけた。今から思えば、『太宰治全集』、『戦争と平和』、『静かなドン』等の本を読む時間などあったのだろうか。しかもテーマを決められた読書感想文で賞をいただいているだけでなく、文芸クラブの機関誌へも投稿している。そして中学2年からペンフレンドへ定期的に手紙を書いた。要するに、文章を書きたかったのである。
 しかし、勉強の手を抜くことはできなかった。そこで、夕食と風呂を済ませて9時から12時まではノート作成に費やした。そして、12時からが自分の時間である。大抵、1時までは眠らなかった。本を読めば、2時を越えることもしばしばであった。強健な体は睡眠時間を多く必要としなかったのである。
 一年の1学期の中間テストにおいて私の属する2組は英語のリーダーと文法の試験の平均点が1組よりそれぞれ10点あまり低かったので、担当の北先生が週2回も英作文の補習をして下さった。また、一学期の英語の成績を見て担任の先生が、中学の教科書を丸暗記するように助言して下さった。12月の期末テストで平均点が同じになり、補習は終わり、同時に、私の成績も好ましいものになった。つまり、現在英文学を続けていられるのも、基礎を築いて下さった二人の先生のお陰である。
 3年生の9月初旬、東洋紡の面接を受けたとき差別用語で質問されたことに反発したため、就職を棒に振っただけでなく、その年以後は母校に就職依頼も来なくなってしまい、後輩にも迷惑をかけたことになる。次に、日本生命は学力試験と面接が終わり、身体検査を残すだけであった。ところが、新聞局の先輩に関西電力の受験を勧めていただき、京都支店の試験も受けたのである。試験の成績が良かったので、面接を受けて欲しいという労務課長の伝言があった。ところが、皮肉にも両社の日にちが同じであった。進路担当の先生は「日本生命へ行け」と言われたが、立命館大学の二部に行きたく思っていたので、関西電力の面接を受けた。縁故を重視する会社であるから、見事に失敗したのである。進路の先生はもう世話をする会社はないと言って怒っておられる。警察官の試験だけが残っていたので、仕方なく受験して合格した。合格者氏名が新聞に掲載されたので、それを見られた英語の北先生は「本当に警察官になるのか」と質問された。「行くところがないので、仕方ありません」と答えると、「大学時代の友達で、専務をしている会社があるので、問い合わせてみよう」ということになった。ハカマ鋼材株式会社は大阪ビルディングの8階にあり、堂島川を挟んで東洋紡があり、同じ並びに同級生の中西君が就職した関西電力の本社があり、人生の皮肉を感じながら、試験と面接を受けた。